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牟呂八幡宮は、『ええじゃないか』発祥の神社です。豊橋市で初宮、安産、厄除け各種御祈祷は、『ええじゃないか』発祥牟呂八幡宮へご参拝下さい。

電話でのご予約・お問い合わせはTEL.0532-31-1567

〒441-8087 愛知県豊橋市牟呂町字郷社1-1

牟呂八幡宮とは/ええじゃないかhistory

御祭神

     おうじんてんのう ほんだわけのみこと
       応神天皇 (誉田別尊)
       じんぐうこうごう おきながたらしひめのみこと
      神功皇后 (息長帯姫命)


歴史

社伝によれば飛鳥時代、文武天皇元(697)年に創建とされている。平安時代中期に編纂された『三河国内神明帳』に「従五位上 牟留天神 坐渥美郡」と記されている神社は牟呂八幡宮と考えられる。

初め豊前(大分県)の宇佐神宮より八幡大神を勧請し、祀られていたが鎌倉時代の文治2(1186)年、この牟呂は源頼朝の家臣佐々木左衛門尉の知行所となり、社頭に営繕が加えられた。

建久2(1192)年には、鎌倉の鶴岡八幡宮から八幡神が勧請され併祀されている。社伝によると「鎌倉時代、牟呂八幡宮を鶴岡八幡宮から八幡神が勧請の折り、鎌倉・森田・杉本の三社僧が御供して参りました」と説明されている。

また、貞応元(1222)年、鶴岡八幡宮を模して三方(南・東・西参道)大門、三の鳥居南西側に三ツ池を掘り、弁天社等が造られ、これにより当社の社頭が整った。

境内に今は存在しないが鎌倉時代に建立されたとする、仏教寺院の神宮寺が3の鳥居南西側にあったとされている。
棟札は戦国時代の天文11(1542)年3月19日、田原城主藤原(戸田)堯光のものが最も古く、天正20(1592)年11月11日、吉田藩城主池田照政のものもあり、これを含めて約51枚が所蔵されていた。

宮座は、この地方では最も古いと考えられる慶長7(1602)年の「牟呂邑八幡座覚」文書があり、元和5(1619)年の「祭礼座帳」も残っている。宮座は、明治40(1907)年に廃止されるが、大正時代にはこの地方では、いち早く氏子総代制として復活され、現在に引き継がれている。

江戸時代のはじめ慶安二(1649)年三代将軍の徳川家光より牟呂八幡宮と大西の牛頭天王社合わせて四石五斗の朱印地を寄進されている。江戸時代末期の元治2(1865)年には、朝廷から神階の最高階位である正一位を授かる。

幕末期の慶応(1867)3年7月14日、牟呂村大西に発生したお札降りは、「ええじゃないか」騒動の発端となった出来事である。これについての詳細を記したのが『留記』であり、これは宮司であった森田光尋と光文親子がまとめたものである。お札降りは、牟呂から離れると民衆運動の「ええじゃないか」騒動へと変容し、東海・近畿・四国等に拡散していった。

明治四(1871)年、渥美郡3小区の21社の中の郷社に指定される。

昭和二十(1945)年6月20日、本殿・社務所・鼓楼等が空襲により焼失した。

この半年後の11月20日には鶴岡八幡宮より分霊を受ける。

昭和25(1950)年に本殿、昭和33(1958)年には拝殿が竣工された。

昭和55(1980)年、愛知縣神社庁より6等級が認証された。

平成12(2000)3月27日、鼓楼落成式が執り行われた。

平成24(2012)年1月31日「牟呂八幡宮の相撲神事を中心にした神幸祭」が豊橋市指定無形民俗文化財第三号に指定された。


略歴

慶応3(1867)年7月14日午後4時頃、大西の多治カ屋敷に外宮のお札が降った。明くる日にも、天王社の中の樹に伊雑宮のお札が降り、さらにその晩、中村の普仙寺の秋葉山石灯籠に内宮のお札が降った。当時の牟呂八幡宮神主森田光尋は庄屋や総代を集め相談した結果、文政13(1830)年のお鍬祭に倣って実施することとなった。18日午後4時、大西の総代がお札を持ち、牟呂八幡宮へ向かった。村の人たちはお揃いの衣裳で-300年は大豊年-の古歌を歌いながら踊りたわむれた。
牟呂八幡宮ではお鍬様をお祭りし、神事を行い、社前に幟を立て人々には酒をふるまった。集まった大群衆の-300年は大豊年-の声はお宮の森にこだました。この遊び日は2夜3日の20日まで続いた。それから1ヶ月後の8月12日、牟呂八幡宮に秋葉山のお札と御像札が降っており、16、17日にお祭りをすることとなった。芝居や狂言を行い、お酒をふるまい、境内は人で埋め尽くされた。17日の夜、そのお札を境内の秋葉神社に納めた。


豊橋市美術博物館蔵

ええじゃないかの広がり

こうしてお札は次々と降り、神社や各家に降った。各村の神社に降った時は、その村の祭礼を行い、個人の家に降れば祭壇を設け、お札をかざり、人々には酒をふるまうなど、祭事をした。それゆえ、人々は噂を聞き、あちらこちらと飲み歩き、‐300年は大豊年‐ と浮かれていた。お札降りは忽ち東西へ広まっていった。
慶応3年9月から12月にかけて、お札降りにともなう‐ええじゃないか‐ のから騒ぎは次第に各地に広がっていった。男は女装し女は男装し、華やかな衣裳をまとい、浮かれ歩いた。お札降りがあったところに行き、酒食を強要したり、「これくれてもええじゃないか」と言って、勝手に持ち去ったりした。「それやってもええじゃないか」で止めようともしない。なんでも‐ええじゃないか‐ であった。さらに祭りは華美になり、豊年踊りやお陰踊りが入り交じった。二夜三日は七夜七日と拡大していった。

このように景気がよく明るく元気な世の中に復興したことにあやかったご利益ある -ええじゃないか札守- を社務所で授与いたしております。

ええじゃないかの現在

ええじゃないかを再現しようと豊橋商工会議所青年部と共催し、毎年7月第2土曜日に無病息災、商売繁盛、事業繁栄の祈願祭を行い、その後、境内の鼓楼からお札を撒き、当時の様相を再現しています。

店舗イメージ

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牟呂八幡宮

「ええじゃないか発祥」神社
牟呂八幡宮
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